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約束の行方 (10) [小説: 約束の行方]

「これ以上時間を無駄にできない」
隣の女性の声に再び我に返った。
彼女はひどく切羽詰った様子で迫った。
「あなたの名前を教えて」
「えっ? なんで?」
「冗談だと思ってくれていいから、名前を言って。もしその人に会いたいと望むなら」
別に彼女の言うことを理解したわけでも、信じたわけでも、ない。
もしかしたらちょっとおかしい人なのか、新手の詐欺かもしれない、と思いながら、別に名前を言うくらいどうということもない、と考えただけだ。
「山下希実」
私は小さく自分の名前を告げた。
もし、会いたい、という気持ちが少しもなかったなら、言わなかったと思う。
「山下、希実さん」
彼女が私の名前を繰り返した時、ひんやりと冷たいものが手の甲に触れた。
驚いて見ると、座席に投げ出したままの手の上に、彼女の手が乗っていた。
次の瞬間、地球の中心に引きずり込まれると思うほど、座席も線路も川もあらゆる物質を越えて真っ暗な闇にすとーんと体が落ちていくのを感じて思わず固く目を閉じた。


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約束の行方 (9) [小説: 約束の行方]

木の箱に納められた母の体の上に新聞紙でくるんだドライアイスが置かれた時、死んだ人間の体はただの物として扱われるんだ、と強烈に思ったことを覚えている。
泣き出した私を、親戚のおばさんたちが「まだ若いのにつらいわね。かわいそうに」と口々に慰めてくれたけれど、そうじゃない。
私は取り返しの付かないことをした愚かな自分が悔しくて泣けたのだ。
母に見せた最後の顔は寝起きの仏頂面だった。
そして何より約束の五時に家に帰らなかった。
父からの電話で急を知って病院に駆けつけた時には、死亡宣告を受けた後だった。
二度と謝ることはできない。
現実に流れる時間の中では絶対に取り戻すことのできない機会を失ってしまった。
いつでもそこにいると思って甘えていた。突然いなくなることがあるなんて、考えたことがなかった。
娘の親不孝を、父が叱ることはなかった。
そのことが余計につらかった。いっそ、お前のせいだ、とでも言われた方が百倍ましだった。
私は思い切り叱られたかったのだ。
できることなら、誰よりも、死んだ母に叱られたかった。


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約束の行方 (8) [小説: 約束の行方]

あの日、私が家に帰ったのは七時だった。
母の指定時間より遅かったことに罪悪感はあったが、門限は守ったんだからいいだろう、と開き直ってもいた。
ポケットに入れた手の中に残る彼の掌の温もりとプレゼントのピアスで幸福感に満たされていたから、その他のことには関心がなかったのだ。
「ただいま」と声をかけても、誰も何も言わなかった。
家中の灯りは皓々とついているのに。玄関には父と母の靴が並んでいるというのに。
二日連続はまずかったかな、とさすがの私も反省した。
きっと怒って無視を決め込んでいるのだろう。
私は気まずい想いを抱えてキッチンに向かった。
キッチンには、冷えた蛤の吸い物とデンブのピンク色と卵の黄色が鮮やかなちらし寿司。駅前のケーキ屋の箱。ワインのボトルと三つのグラス。
そこに母の姿はない。
隣のリビングを覗いた。そこにも、誰もいない。
ちらりと嫌な予感が頭をよぎった。
実際、その頃にはくも膜下出血で倒れた母は救急病院で生死の境を彷徨っていたのだ。


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約束の行方 (7) [小説: 約束の行方]

「まあ、いいや」
自分から言い出しておいて、彼女は片手をひらっと振って話題を変えた。
「ねえ、あなたに会いたいって人がいるんだけど」
「は?」
面識のない人が突然やってきて、誰かが会いたがっている、と言うのをそのまま信じる人がこの世のどこにいるんだろう。
思わず露骨に眉をひそめる。
もしかして何かの宗教の勧誘かもしれない。
私のごく当然の反応に、彼女は笑って頷いた。
「それもそっか。確かに見ず知らずの人間にこんなこと言われたってワケわかんないよね。でも、宗教の勧誘じゃないからご心配なく」
彼女の言葉をさらりと流しかけて、はっとする。
『宗教の勧誘じゃない』って言うのは、ただの偶然?
思ったことを読み取れたわけではないでしょ、いくらなんでも。
「私の口から詳しくは言えない。でも、考えて。ヒントを三つあげる」
彼女は構わず頬の横で人差し指から一本ずつ指を立てていきながら、こう続けた。
「あなたは、その人をよく知っている。少なくともついさっきまでその人のことを考えていた。そしてこれから会いに行こうとしている。……以上」
その発言はまったく突飛で、意味は不明だ。
けれども、まったく何も思い当たらない、と言えば嘘になる。


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約束の行方 (6) [小説: 約束の行方]

電車で突然知らない人に話しかけられたら、誰だって警戒すると思う。
逆に話しかける方だって多少なりとも勇気が必要だ。
だけどとても奇妙なことに、彼女はまるで子どもの頃から知っている友だちのように、親しげに私に問いかけた。
「あなたは、記憶力のいい方?」
最初は、私に言ったのではないと思った。
だけど、彼女は間違いなく私の顔を覗き込んでいるし、私の右隣(つまり、彼女の隣の隣)には、誰もいなかった。
「記憶力?」
「そう、記憶力。物覚え」
彼女は頷いて、言葉を言い換えた。
年は私と同じくらいだろうか。
月のない夜の闇のような黒い瞳と長い睫に思わず見入ってしまう。
それと肌が透き通るように白い。
生粋の日本人じゃなくロシアとかフランスの血が混ざっている、と言われたら、それもあるだろうな、と納得できる感じ。
「この前の人は物覚え悪くて苦労してさ」
彼女はそう言って、同意を求めるように肩をすくめた。
「思い出させるのにホント、苦労した」
この前の人、って何だろう。
そもそも、一体この人、何なんだろう。
見ず知らずの私に、記憶力の話なんて。


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