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約束の行方 (9) [小説: 約束の行方]

木の箱に納められた母の体の上に新聞紙でくるんだドライアイスが置かれた時、死んだ人間の体はただの物として扱われるんだ、と強烈に思ったことを覚えている。
泣き出した私を、親戚のおばさんたちが「まだ若いのにつらいわね。かわいそうに」と口々に慰めてくれたけれど、そうじゃない。
私は取り返しの付かないことをした愚かな自分が悔しくて泣けたのだ。
母に見せた最後の顔は寝起きの仏頂面だった。
そして何より約束の五時に家に帰らなかった。
父からの電話で急を知って病院に駆けつけた時には、死亡宣告を受けた後だった。
二度と謝ることはできない。
現実に流れる時間の中では絶対に取り戻すことのできない機会を失ってしまった。
いつでもそこにいると思って甘えていた。突然いなくなることがあるなんて、考えたことがなかった。
娘の親不孝を、父が叱ることはなかった。
そのことが余計につらかった。いっそ、お前のせいだ、とでも言われた方が百倍ましだった。
私は思い切り叱られたかったのだ。
できることなら、誰よりも、死んだ母に叱られたかった。


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コメント 2

はなぽん

BUMP OF CHICKENのsupernovaの歌詞に
「述べられた手を拒んだその時に 大きな地震が起こるのかも知れない」
とありますよね。
取り戻せない時間というのが、ホントにあるということ、
人は忘れがちです。

大好きな祖母から電話がかかった時、私は疲れていました。
母から電話に出るように言われたにもかかわらず、
「疲れているからまた今度ね。」と断った私。
まさか、祖母からの最後の電話になるなんて。
今も、悔やんでも悔やみきれない一瞬の出来事。

続きを、楽しみにしています。
by はなぽん (2005-12-18 14:17) 

小島澪

人が亡くなった時、最後はいつ接点があっただろうか、と思い起こす分、最後の記憶がその人の思い出または自分自身の後悔として記憶に残りやすいのでしょうね。
私も、祖母には初孫としてかわいがってもらったのに、距離を理由に、入院してから一度も会いにいかなかったことを亡くなってからはじめて悔やみました。
一期一会というのはよくできた言葉だなと思うのですが、「次」というタイミングが永遠にやって来ないことは実は珍しいことではないのに、ついそのことを忘れて時間や機会を無駄にしていることが多い私です。
せめて、時々、そういう記憶を掘り起こして思い出すことも、冥福を祈ることになるのかな、とも思います。
特に年の瀬は人の死について考える機会が多いですね。
by 小島澪 (2005-12-25 03:34) 

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