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扉の向こう側 現在(1) 2006年1月4日 [小説:扉の向こう側]

 ドアを開けたら、そこは違う世界だった。
 ……ということが起こらないかな、といつも考えていた。
 生まれてから何千回、何億回とドアを開けてきたんだろう。
 アパート、お風呂、トイレ、エレベーター、電車、オフィス、会議室、銀行、コンビニ……あらゆるドアの向こうはいつも思ったとおりの状態で、思ったとおりの事しか起こらない。
 家のドアを開けたら火の海だった、とか、強盗がいた、とか、サプライズどころか命に関わるようなことに遭遇しないだけ幸せと思うべきだろうけど。
 ドラえもんの便利グッズで一番欲しい物は、子どもの時から『どこでもドア』だった。
 ドアを開けたら行きたい所に行ける。簡単に行けないところにも、家のトイレに入るみたいにひょいっと気軽に辿り着ける。それが私にはたまらなく魅力的に見えた。
 以前の私は、世の中の全てのことに退屈してしまっていた。ドアを開ける時にはいつも、予想を裏切る何か、人生を変えてしまうような何か、が起こることを期待していた。
 毎日同じ時間に起きて、同じ電車の同じ車両に乗って、会社でその日の仕事を片付けて、ゴハンを食べて、テレビを見て、寝る。週末が来て、ぼんやりしている間に、また月曜日がやってくる。――そのサイクルが完成されていて、メビウスの輪のようにつながっている。
 そこからなんとか抜け出してみたいと思う、ただそれだけ。
 そう、ただ変化を期待するだけで、そこにある事実に気付いていなかった。自分から変化を起こそうともしていなかった。
 でも今は、ただの期待ではなく、確信している。
 扉の向こうではいつだって新しい出来事、未来につながる何かが待っているってことを。
 そこにあるきっかけに気付いて、心に思うだけじゃなく行動しなくては何もはじまらないということを。
 ここに、5冊の日記がある。学生の頃から気まぐれに書き綴ってきた過去の記録だ。
 毎日欠かさず書いたものではないから、日記、という言葉はまったく相応しくない。10年間で3冊という事実がいかに私が怠け者かを示している。
 そうは言っても、この中に、今日にたどり着くまでの道筋が残されているのには違いない。
 これから次の新しい扉を開く前に、今につながっている過去の扉を探してみようと思う。


扉の向こう側 過去(10) 2006年1月1日 [小説:扉の向こう側]

 まだ、家を出る時に心に決めたことを言い出せないままだ。
 年が明けるその前に、と思っていたのに。ドアを開けるまでにさんざん迷って決めたのに。
 守屋さんと二人で明治神宮に初詣にやってきた。
 いつものようにお蕎麦だけで終わらないで済んだ。今夜は大晦日だから。
 それなのに、ダメな私。
「パパ……ううぇ」
 私は小さな女の子を両腕に抱えて、前を通り過ぎる人の波を目で追いながら、途方に暮れた。
 同じように食い入るように列を見つめる女の子の目は洪水状態。壊れた水道の蛇口みたいに涙がどんどん頬に溢れ出す。指を口の中に突っ込んで体を震わせている。
「ねえ、お母さんたち、いない? 見えない?」
「いないー。うっうっ」
 何を聞いても彼女は泣くばかり。
 私も泣きたい。
 十二時が過ぎて参拝がはじまり、お賽銭箱までたどり着いて手を合わせた直後。人の波が押し寄せてきてその中でもがいているうちに、いつの間にか守屋さんとはぐれてしまっていた。
 携帯は、回線が混み合っていてつながらない。その上、同じように迷子になった子どもが私の手を離さず、この場を離れることもできなくなった。
 私の人生なんて、こんなものなのかも。今日こそ、と思った時に限って、うまくいかない。
 私はそっとため息をついた。
 わかってる。今日こそ、というタイミング自体が遅いんだ。
 目の前を通り過ぎるチャンスをぼんやり見送って、手を伸ばそうと思った時にはもう遠いところに行ってしまって届かない。その繰り返し。『あの時こうしたら』って何度も後悔してばかり。情けない。
 女の子の背中をさすりながら呆然と突っ立っていると、向こうから今にも泣き出しそうな顔の女の人が転げるようにして駆け寄ってきた。
「カナちゃん!」
 目の前の泣き顔と瓜二つだ。
「ママ! パパ!」
 女の子がしゃくりあげながら両手を伸ばす。
 待ち人、来たる。
 ほっとした。
「ごめんね、カナちゃん。ごめんね」
「どうもすみません。ありがとうございます」
 お父さんらしい男の人が長い両腕で女の子の体を受け取り、しっかり抱きしめた。
 二人は丁寧に何度も頭を下げて、その場を立ち去っていった。
 仲良く体を寄せ合いながら遠ざかる家族の後姿を一人で見送ると、何とも言えず淋しい気持ちになった。
 あの人とならいつかあんな家庭を築けるかもしれない、って割とリアルに想像できてたんだけどな。
 また、遠い夢になってしまった。やっぱり私にはそういう現実は訪れないのかもしれない。
 冬の夜風がやけに身に染みる。
 もう帰ろうか。きっと、守屋さんも家に向かったに違いない。
「こんなとこにいた」
 駅の方に足を向けようと決めた時、ぽんと頭の上に大きなものが乗っかるのを感じて、顔を上げた。
「どこ行ったかと思った。迷子の放送まで考えたよ。見つかってよかった」
 守屋さんが、ほっとした顔で笑っていた。
 今度こそ本当に涙がこぼれそうになった。
 私を、探してくれていた。まだ帰ってなかったんだ。
「私、ついていってもいい?」
 泣き出す代わりに、あきらめかけてた言葉が思わず口をついて出た。
 頭の上に置かれた温かい掌が余計な不安や心配を全て溶かしてしまったのかもしれない。
 首をかしげ何のことか問いかける守屋さんの目をまっすぐに見る。
「先のことなんか約束しなくていい。掃除でもベッドメイキングでもウェイトレスでもなんでもやって自分の生活くらい自分でなんとかする。このまま何事もなかったみたいに終わらせたくない。だから、傍にいてもいいですか」
 自分でも信じられないくらい、すごい勢いで言いたいことを一気に話した。
 これが最後のチャンスだ。
 きっと今を逃したら、もう二度と言い出せない。今日別れたら、それきり。この人は二度と私を探してはくれないだろう。『もしかしたらあの時』って思いながら一生を終えるのは嫌だ。
 全てさらけ出した後。
「まいったな」
 守屋さんがいかにも困った顔を見せたので、そのまま腰が抜けそうになった。
 私たちの間に通い合う気持ちがある、なんて思ったのは、勘違い? ただの、自惚れ?
 膝が小さく震え出す。この場から一刻も早く逃げ出したくなる。
 私が既に絶望しかけていることを知ってか知らずか、守屋さんの動作の一つ一つは恐ろしくゆったりとしていた。ダメならダメで一刻も早く一思いに斬り捨ててほしい、と思うのに。
 守屋さんは両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで、顎を上に向けて天を仰いだ。ふうーっと長く白い息を吐き出した後、再び私の顔を見た。その目は真剣で、冗談を言うようには見えず、これから告げる言葉がいいことなのか悪いことなのかも予測がつかない。
 そしてポケットから出した左手で私の右手をつかんで、一言一言、噛みしめるように言う。
「アメリカで成功する保証はない。失敗して全て失うかもしれない。今まで日本でやってきたことがそのまま向こうで通用すると思ってないし、ある意味本当にゼロからのスタートだと覚悟している。仕事の実績も、財産も、何もない状態。それでも、一緒について来てくれる?」
 はい、と迷わず頷いた私に、彼もまた一つ頷く。
「先に言わせるつもりじゃなかったんだけどなぁ」
 守屋さんは残念そうにそう言って、私の手をつかんだまま、その手を無造作にジャケットのポケットに押し込んだ。
「冷えたね。どっかでコーヒーでも飲もうか」
「うん」
 一緒に、ゆったりと歩き出した。
 温かい手だった。
 私は、二度とはぐれないように、その手をぎゅっと握りしめた。
 家を出る時あれこれ悩んだことが嘘のようにあっさりと決着がついたので、ちょっと信じられない。でも、今ここにある温もりと感触が実感として現実だと教えてくれる。
 一歩足を踏み出す度に砂利がざくっという音が響く。道をはさんで向こう側に並ぶ屋台の賑わいが遠く聞こえる。
 彼も、私も、黙っていた。
 彼が今何を思っているのかは知らない。知らないけど、根底で私の思うこととちゃんとつながっている気がした。
 冷え切った夜空に、オリオン座を見つけた。真ん中の三つの星が、きらきらしていた。
 さっきの女の子、もう寝ちゃったかな。泣き疲れて、お父さんの腕の中で。
 迷子になってもちゃんと迎えに来てくれる人がいる。それって、とても幸せなことだ。
 少し前に神様の前で手を合わせた時と同じことを改めて心の中で強く願った。今年最初の祈りが長く効力を発揮するように。
 この人と、ずっと一緒にいたいです。


扉の向こう側 過去(9) 2005年12月31日 [小説:扉の向こう側]

 コートを着て、玄関に座り込んでブーツまで履いておきながら、まだ迷っていた。
 何の特技も資格も免許もない私が、建築模型を作るという仕事を見つけることができた。
 社内で専任で任されているとは言っても絶えず仕事があるわけではないし、独立してやっていけるほど大層な腕前ではない。だけど、自分の思うように何かを作るのは、楽しい。一応、手に職を付けたと言えると思う。まだ今でも中西さんから一発OKをもらえる確率は低いし、これからも修行が必要だけど。
 この決断次第で私の人生が変わるのは、間違いない。
 今までどおりの生活を望むなら、このまま何もしなければいいだけだ。平日にはオフィスに行って、模型を作ったり谷さんの仕事を手伝わせてもらう、そんな毎日を続けられる。
 だけどもし変化を望めば、今の会社は辞めることになる。かなりリスクは高い。全てを失い、手元に何も残らないということもあるだろう。
 どっちが幸せかなんて、わからない。
 未来に保証なんかない。結果的にどっちがいいのかなんて、誰にもわからない。どうなるか考えたって、なるようにしかならない。目の前にあるのは、今、この瞬間にどうするのか、ということだけ。
 だから迷う。踏み出すには勇気が必要だ。

 この決断へのカウントダウンはとっくに始まっていた。
 ビザも無事取得して、渡航準備は整っている。一月十日、十七時、成田発サンフランシスコ行の飛行機で、守屋さんは日本を離れる。
 私たちは今日までに七回、一緒に食事をした。適当な社交辞令ではなく、ちゃんと”今度”がやってきたわけだけど、本当にそれだけ。見事なくらい食事だけが目的だ。
 待ち合わせをして、おいしいものを食べて、駅で別れる。メニューも、焼肉、タイ料理、鶏の水炊き、お好み焼き、etc。先週なんて、クリスマスだったと言うのに、すき焼きだった。色気より食い気の、安全な選択。
 今夜は、年越し蕎麦。なんとなく、守屋さんは今日が最後のつもりなんだろうと思う。
 正月が明けたらすぐの出発。きっと最後の準備や挨拶で忙しいことだろう。
 私は、ただ偶然が重なった上に期間が限定されているからという理由だけでこの出会いに運命のようなものを感じてはいけないと思っていた。巡り合わせが悪かったと考えた方がいい、と納得しようと努力してきた。
 でも、努力って一体、何のための努力なんだろう、と昨日になって気付いた。
 日を追うごとに一緒に過ごせる時間は減っていき、決して増えることはない。最初の頃のようにただ楽しいだけの時間じゃなくなってきた。駅で行き先の違う電車に別れて乗る度に、どーんと落ち込む。
 努力というのは、先に何か明るいものが見えるからできることじゃないのか。
 落ち込むためにする努力って、一体誰の為に、どんな未来のためにしているんだろう。


約束の行方 (12) [小説: 約束の行方]

しばし呆気に取られた。
さっきまで電車に乗っていたはずで、まだ多摩川を渡るところだった。
横浜市内の最寄り駅までたどり着いていなかったというのに?
だけど、確かに私はここにいる。
間違いなく、ここはマンションの5階で、今は父が一人で住んでいるはずの実家の部屋の前だ。
考え事をしているうちに、いつの間にか私は、電車を降りて、ちゃんと改札を抜けて、駅からの道を歩いて、エレベーターで昇って、ここまで来てしまったんだろう。
そう思うしかない。
断片的に記憶を失くすくらいにきっと疲れきっているのだろう。
気を取り直して、私はバッグに手を突っ込んで、鍵を取り出した。
父は用心深い人で、いつも、在宅でもきちんと戸締りをしている。
鍵を開けてドアをあけると、ほんのりとご飯の炊けるいい匂いがした。
薄暗い家の中で、キッチンの灯りだけが灯っている。


約束の行方 (11) [小説: 約束の行方]

気が付いたら、紺色の扉の前に立っていた。
503、という部屋の番号の下に、『山下 昌則』と父の名前が刻まれたプレートがあった。
振り返ると、見慣れたチョコレート色の柵の向こうに、夕焼けの赤いフィルタに沈む街が見下ろせた。
車の流れが絶えない駅前の道路。
角のコンビニエンスストア。友だちのお父さんが経営している小さな印刷工場。
銭湯の煙突。小学校のコンクリートの四角い建物と、校庭。
学校から、チャイムと同時に『夕焼け小焼け』のメロディが流れはじめた。
五時を知らせる音。
子どもの頃、「あれが聞こえたら帰ってきなさい」と言われていたメロディ。
シンデレラみたいだったなあ、と今思うと少しおかしく、懐かしい。

夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手手つないで 皆帰ろう
からすと一緒に 帰りましょう
(詞: 中村雨紅)


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